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北条 時定(ほうじょう ときさだ)は、鎌倉時代中期の北条氏の一門。北条時氏の3男。母は松下禅尼で、第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の同母弟にあたる〔。得宗家から鎮西に下向した阿蘇家の祖。諱はのちに為時(ためとき)と改名している。 == 生涯 == 時定の正確な生年は不明であるが、安貞元年(1227年)から寛喜2年(1230年)の前と推定される〔 高橋慎一朗 著『人物叢書‐北条時頼』吉川弘文館、2013年、p.11〕。 父・時氏は、時定の祖父で3代執権・北条泰時の後継者と目されていたが、早世したため時定の同母兄である経時、時頼が執権職を継承した。宝治元年(1247年)の宝治合戦では執権時頼の命で大将軍として三浦氏と戦った〔。北条氏の祖である北条時政以来、代々継承された肥前阿蘇社の所領を継ぎ、苗字を阿蘇と称する。弘長4年(1264年)、前年に死去した兄・時頼の百カ日仏事に際して満願寺を開創した。 将軍の側近として仕えたが、元寇にあたり、弘安4年(1281年)に肥前守護に任じられ、8月頃に現地に下向した〔。弘安8年(1285年)11月から弘安9年(1286年)閏12月の間に為時と改名する。弘安10年(1287年)1月29日には鎮西奉行に任じられて蒙古対策に従事した〔。 正応2年(1289年)、養子の北条定宗に家督と肥前守護職を譲って隠居する〔。正応3年(1290年)10月15日に博多で死去〔(『尊卑分脈』では正応2年没)。 熊本県阿蘇郡南小国町に時定が建立した満願寺に、時定・定宗・随時のものと伝えられる五輪塔と、時定・定宗の肖像画がある。時定は弓の名人であったと伝わる〔。 実子の随時は定宗の猶子となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「北条時定 (時氏流)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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